2018年12月03日

朗読会、拝聴する

去る2018年11月24日、Tさんの朗読会におじゃましました。
Tさんは、いつも背筋をぴん! と伸ばした、武士の娘みたいなお方ですが、
合唱サークルではいつも、お世話になっております。
朗読会はいろんな話がありましたが、特に印象に残った話を、2つほど。

『おしの』
芥川龍之介らしい、描写と端的な表現。
キリスト教への批判が痛烈で、
「釈迦やお地蔵さんを批判するけど、イエス像も偶像だよね?」
「死ぬときに、神に見捨てられたって嘆いたよね?」
なんて迫ってくるようでした。
イエスは磔刑で死んだわけですが、弟子たちによって『復活した』と言われています。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」
  神父が、おしのにこのことばを言わなかったのは、それなりの意図があったのでしょうね。
復活という理性では信じられないことを信じるのが宗教というヤツです。
  仏教にも、理性では信じられない 「輪廻転生」 や 「他力本願」 を信じる人もいます。
クリスチャンのわたしにとっては、弱虫なイエスを信じるのはバカか、と言われたようで、
同じクリスチャンで悪に敗北した父のこともあるし、「イタタタタ」って感じですね(笑)

『黄金風景』
おけいのことをさんざん愚弄してきた太宰治が、おけいの寛容の精神に
「負けた」
と実感するシーンです。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。
聖書には、そんなことばが書いてあります。
太宰治は、イスカリオテのユダの視点からイエスを描いた、『駆込み訴え』みたいな作品も作ってますし、そうとう屈折している。
おけいに対しても、『負けた』、と思いつつも、
自分もそうありたい、とは思ってないフシがある。
善良である、というのは、人を罪に追い込むこともある。
おけいが善になったこの話は、太宰治が自分の中の悪党を実感し、罪を自覚する話です。
すっと読むだけではくみ取れないなにかが、あるのかもしれません。
  朗読者の脇に海辺の絵画が置かれていたのが、想像をかきたてられました。

宗教は、文学のモチーフになるのですが、
イスラム教を批判すると、テロに遭ったりするので気をつけてね。
キリスト教も、右翼な人にとっては、芥川龍之介や太宰治は、
目の敵になってるかもしれません。

日本は多神教で良かったかもね。でも、最近は一神教の影響を受け、悪いところが目につきます。
都市化が進んでるから、かもしれない。
もっと大きなこころで、人と付き合いたいモノです。

posted by 岡野なおみ at 08:25| Comment(0) | 日記